2009年06月17日

キングサイズないしロングサイズが

キングサイズないしロングサイズが現在では主流。

ミニサイズ - 長さ65mm、もしくは70mm未満。日本国内では現在流通していない。ミニ・スターが最後の製品だった。
レギュラーサイズ - 長さ70mm。ピース(10)やホープ (10)など。
ロングサイズ - 長さ80mm。
キングサイズ - 長さ85mm。
スーパーキングサイズ - 長さ100mm。これを「ロングサイズ」と呼ぶ向きもある。
120mmサイズ - 長さ120mm。

吸い口による分類 [編集]
口付き
吸い口部分が、厚手の紙を筒状(つまり空洞)になっているもの。日本国内では、1977年の朝日廃止と共に市販品では消滅したが、2006年まで恩賜のたばこに使われていた。海外には、まだ口付きの製品が見られる。
両切り
吸い口部分にも葉が詰まっているもの。フィルター付きに押されて製品は減ったが、ピース(10)やゴールデンバットなどが製造されている。
フィルター付き
吸い口にフィルターが付いたもので、現在の主流。たばこのニコチン・タール等を吸収するほか、たばこの葉が口に入らないなどの利点もある。19世紀から製品は存在したが傍流にすぎず、1950年代ごろから世界的に普及をみせた。日本では1957年のホープ (10)が最初の製品である。
元来、紙巻きタバコは口付きの製品から普及した。両切りより前に口付きが普及したのは、製造の際手作業で紙を巻いていた時代には、両端とも葉の長さを揃えることが困難だったからためである。機械が本格的に導入されて以降は両切りが主流となり、後にフィルター付きが普及し一般的になった。
伝統芸能
闘牛
フライングディスク
アルバイト
バトントワリング
エネルギー
スキューバダイビング
百日咳
サッカー
離乳食
中国のお茶の歴史
人体と細胞
消化器系事典
ステキな星座
華麗な花嫁
夏に咲く花情報
癒しの国
日本のお茶
けの付く言葉
ワインカラー

使用する葉による分類 [編集]
製造たばこ定価法第1条において、使用している葉の質によって以下のように分類していた。

一級品
上質の葉たばこを主原料に用い、精選した他の原料葉たばこと配合し、上級銘柄としての特色及び品位を保つように調製したもの
二級品
上質及び中質の葉たばこを主原料に用い、選別した他の原料葉たばこと配合し、中級銘柄としての特色を保つように調製したもの
三級品
中質及び下質の葉たばこを主原料に用いて調製したもの
製造たばこ定価法は、1985年4月1日のたばこ事業法施行に伴い廃止されたが、廃止時点で三級品であった銘柄[2]は旧三級品と呼ばれ、課税額が安くなっている[3](経過措置扱い)。

パッケージ [編集]
日本では一般的に「ソフトタイプ」と「ボックスタイプ」の2つに分けられている。ボックスタイプには、クラムシェル形とフリップトップボックス形に分かれる。近年は、フリップトップボックス形のボックスタイプに人気がある。また、香りが逃げるのを防ぐため、フィルム包装が施されていることが多い。香りを逃がさないために缶入りにした製品もあり、ピース(50)が現在でも流通している。

の他 [編集]
日本では欧米の外国ブランドの紙巻きタバコを、俗に「洋モク」と呼ぶ。ただ、一般に洋モクと呼ばれるものでも、キャメルなどの旧R.J.Reynolds製品など、日本たばこ産業で国内生産しているものもある。また、マールボロのように、かつて国内でライセンス生産されていた関係で、現在も日本向けに独自のブレンドを施しているものもある。
テレビドラマや映画等のその扱いにより心理状態や状況を表す小道具として使われることが多かった。喫煙率の低下に伴い使用される頻度は減ったが、今でもよく見られる。煙管の項の該当項目も参照。
灰皿に強く押しつけて火を消すことにより、怒り・いらだち・強い決意などを表す。
煙を他人の顔に吹き付けることにより、その人への侮蔑・見下しを表す。
地面に吸い殻が大量に足元に転がっている描写が、長い時間同じ場所で待っている(じっとしている)ことを表すためによく使われた。例として、デートの待ち合わせや、刑事の張り込みなど。しかし、喫煙マナー向上が叫ばれ、ゴミの投げ捨てを禁止する法律や条例が制定された国・地域があることもあり、現在ではほとんど見られない。

2009年05月31日

難波宮

現在の大阪市中央区にあった飛鳥時代・奈良時代の宮殿。

史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。1913年(大正2)大阪城外堀の南付近で数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文の瓦が発見されていたが、ほとんどの人は省みなかった。しかし、1953年(昭和28)同所付近から鴟尾(しび)が発見された。このことがきっかけになり山根徳太郎を指導者とする難波宮址顕彰会の努力により発掘・調査が進み、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになった。そればかりでなく、1958年(昭和33)にはそれよりも一時代古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、686年(朱鳥元)正月「難波の宮室が全焼した」記録から、孝徳朝の宮室が焼失したと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。これらを「前期難波宮」という。 1961年(昭和36年)、山根徳太郎らの発掘により、聖武天皇時代の「後期難波宮」の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。

山根は発見当時、「われ、幻の大極殿を見たり」という発言を残した。
大化の改新の後、645年に孝徳天皇は難波に遷都し(難波長柄豊崎宮)、宮殿は652年に完成した、これは掘立柱、草葺屋根で造られたものであった。

孝徳天皇の没後、655年1月に斉明天皇が奈良の飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し、遷都された。

奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させて離宮を設置する(平城京との複都制)。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。

784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。

現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。

難波宮の遺跡は周辺にも及んでおり、NHK大阪放送局・大阪歴史博物館のある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。 同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したもの。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。
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2006年には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。

難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。


2009年04月27日

過去の太陽嵐

1805年
1859年
非常に激しいCMEが発生、18時間足らずで地球に到達し現在でも史上最大とされる規模の磁気嵐を発生させた。まだ普及途中であった電信機器は回路がショートし火災が発生した。
1958年
激しい太陽フレアとCMEが発生。アラスカのフェアバンクスでは非常に明るいオーロラが観測され、メキシコでも3度に渡ってオーロラが観測された。

今後発生すると予想されている太陽嵐
地球上の海水が熱塩循環という大循環をしているように、太陽内部でも、磁気を帯びたガスがベルトコンベアーのように循環をしていると考えられている。この循環は40年程度で一回りするが、これが約30年?50年程度と変わり、速くなったり遅くなったりする場合がある。速くなっている場合は、多くの磁力線が閉じてエネルギーが蓄積されていることを意味し、近い将来磁力線が開いてエネルギーを開放する可能性が高いと考えられている。この開放は、11年周期の太陽活動のうち、太陽磁場が反転して磁力線が大きく動く極大期に起こる。

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近年循環が早かったのは1986年?1996年であり、2000年の極大期には開放されなかったため、次の極大期である2010年?2011年ごろに開放され、その際には太陽嵐が発生する可能性があると考えられている。前回の1958年や1859年などと比べても、人工衛星が格段に増え、電気が生活を支え、電気製品や電子機器があらゆるところに利用されている現在、あらゆるところに影響が及ぶ可能性があるとされている。

2009年04月11日

宇宙塵

宇宙塵(うちゅうじん、cosmic dust)は、星間物質の一種で、宇宙空間に分布する固体の微粒子のことである。「星間塵」ともいう。化学的組成は、珪素(珪酸塩)や炭素(グラファイト)が多く、他に鉄やマグネシウムなどの重元素も存在する。主に水素から成る星間ガスとともに、主要な星間物質である。暗黒物質(ダークマター)の候補の一つとしても考えられている。

その密度は極めて低く、実体としては、1立方mの空間に塵の一粒があるかどうかという、地上の実験室ではとても到達しきれないほどの超高度真空状態である。しかし、宇宙はあまりにも広大なため、これほどの希薄な密度でさえ、何光年、何十光年とわたれば十分な質量を持った天体となる。それが恒星間空間に広がる暗黒星雲、あるいは散光星雲である。

恒星間空間で見られる星間物質以外にも、太陽系内の惑星間空間において、恒星を周回する彗星の尾から吐き出された物質(地球の大気圏に突入すれば流星となる)や、黄道光として見える塵を指すこともある。

宇宙塵の粒子の大きさは、0.01μmから10μm程度であり、塵自体は地上からは全く見えないが、電磁波を吸収もしくは散乱、反射するので、極めて大規模な集合は様々な星雲として視認される。これらの星雲は、他の星の光を遮ったり、赤外線などを吸収散乱するので天体観測の対象となっている。電波望遠鏡などで観測されているほかにも、探査機によって宇宙塵を採取する試みもある。2006年1月15日にはアメリカのNASAがスターダスト探査機を使ってヴィルト第2彗星の宇宙塵を地球に持ち帰ることに世界で初めて成功した。また、ロケットや気球などを飛ばして高層大気中から実際に宇宙塵を採取し、分析する試みも始まっている。

宇宙塵は地表に毎年100トン程度降り注いでいると考えられており、古いビルの屋上などには、地上から舞い上がった塵と混じり合ってたくさんつもっている。宇宙塵は組成や形態によって細かく分類されている。深海底や南極の氷の中からも見つかっており、研究が続けられている。

マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

2009年03月27日

ハスカール(Huskarl)

ハスカール(Huskarl)とは暗黒時代から中世初期にかけてのゲルマン民族、特に北欧やイギリスなどにいた職業軍人、傭兵の一つ。ハウスカールとも。

封建制度が確立した中世ヨーロッパ社会であれば土地を媒体として騎士を戦争に参加させるなどして職業軍人を確保できるが、封建制度が無い、あっても未成熟な社会においてはハスカールは必要な存在であった。彼らは小規模ではあるが常備軍であり、幼少の頃から高度な戦闘訓練を受けて、首領や王侯貴族に私兵として仕え、その報酬として主に金銭や略奪品の分け前などを受け取っていた。しかしこうした首領や王侯貴族が十分な略奪を行わずハスカールへの報酬を払えない場合、ハスカールは彼らを排除したり見捨てたりすることもあった。自発的な戦闘集団であった為、このように主君に絶対服従を誓う決定力のある戦力とは言いがたかったが、ヘースティングスの戦いでは例外的にハロルド2世 (イングランド王)が戦死した後も彼の配下であったハスカールは最後の一人に至るまで果敢に戦い、討ち死にしていったという。 また、時代が下ると傭兵全般を指してハスカールと呼ばれた。

文献として初めて記録されたのは11世紀初頭からで、スヴェン1世がイングランドを征服しハスカールの制度をイングランドに持ち込んだ事から始まる。イングランドでのハスカールは王宮に住み、一人の伯に対して250?300人が仕えていたという。当時のイングランドとしてはほぼ最強の戦士集団であり、相次ぐ戦いでハスカールを消耗した事もハロルド2世がウィリアム1世に敗北した要因の一つだと言う。

中世ロシアのキエフ大公国、及びその他の諸公国に存在した親衛隊ないし従士団であるドルジーナ(Druzhina)は、元々はロシアに侵攻したヴァイキング(ルーシ)のハスカールが起源となったとされている。また、こうしたヴァイキング(ノルマン人)の傭兵部隊は東ローマ帝国ではヴァラング隊(Varangias)と呼ばれ皇帝の親衛隊として仕えた。

ヨーロッパ諸国で封建制度が確立し騎士を戦争に参加させるようになるとハスカールは不要となり、騎士や領主などに組み込まれるなどして姿を消していった。
リティ ハーフタイ ラサSEO ナビみさわ プローブ いきな オストミー ゼロワン フェイ ユータ メイス ドッグレ オール のんき フィジー ソニア ジューサ トハギ コート ナーグプ ちょくん ロイヤ フラック カスタマー ポンチ 影ふみ ニップル ハンブル 時代屋 ドッキン オンフ タウン むほん ブロード ジルサン パレタイ セリュ すぺあ トレッド ディベー ディーズ フラワー レジャ フォーマ シランレン メゾン お手玉 デモクラシ 竹てっぽ ダボス

装備 [編集]
主な装備は剣、槍(おそらくはフラメア)、カイトシールド、丈の長い鎖帷子、水滴型の兜だが、中には棍棒や両手剣、長柄の斧などを両手で振り回し戦っていたハスカールもいたらしい。特に長柄の斧はイングランドのハスカールの伝統となっており、前述したへースティングスの戦いでもノルマン人の騎兵に対抗する為にサクソン人のハスカール達は馬の足や首を叩き切る事ができる長柄の斧で戦った。

また槍を持つハスカールは、当時のヨーロッパでオーディン崇拝の流れから戦場で槍を投げる事を会戦の合図とするという風習もあってか、それを投槍として使用する事もあった。さらにその槍の穂先を頭上に掲げ楯を前にしてファランクスの様な陣形を組む事で槍衾を作り敵の飛び道具に対抗した。

楯は大型かつ頑丈でハスカールの象徴といえるような存在だった。これによって弓矢や投擲武器による攻撃を撥ね退ける事が出来た。盾には革紐が付いており、両手持ちの武器を使用する際はこれを肩にかけて盾を携帯した。

ただし、ハスカールの傭兵軍が取り立てて弓矢や要塞を陥落させるのに強かったという記述は当然ながら一切ない。いわば普通のゲルマン系傭兵のことである。現在の矢などに強い兵種という誤解は、それをテーマに取り扱ったゲームの影響と言えるだろう。

2009年03月12日

シエーナ歴史地区

シエーナ歴史地区(シエーナれきしちく)は、イタリアの古都シエーナにあるユネスコの世界遺産登録物件名。登録は1995年。中世の町並みが残され、国際ゴシック、ルネサンス、バロックの芸術作品を見ることができる。

シエーナの起源は明確にはわかっておらず、古いローマの都市であるとする伝説もあるが、根拠はない。シエーナが歴史の表舞台に立つのは、東ゴート王国が滅び、東ローマ帝国による短い統治があった後、イタリア半島北部にランゴバルト王国が成立してからである。イタリア半島の統治が困難になったとは言え、アドリア海での東ローマ帝国の勢力は依然として大きく、ランゴバルト王国は物資の運搬路をフランス街道に移さざるを得なかった。シエーナはこの街道の中継基地として、主に金融業によって発展した。

西ヨーロッパ全体の経済活動が活発になり、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといった港湾都市は、貿易によって巨万の富を得るようになった。シエーナも、これらの都市との金融取引によって潤沢な資金を得、13世紀までに西ヨーロッパ最大の金融街として栄えた。11世紀まで、現在のカステルヴェッキオ一帯にしか広がっていなかった市街地は、13世紀中期には現在の市街地にほぼ匹敵する大きさにまで拡張している。他の中世イタリアの都市と同じく、シエーナも12世紀にはコムーネが組織され、都市機能は自治共同体によって運営された。

金融業によって急速に力を得たシエーナは、やはり金融業によって勃興したフィレンツェとトスカーナの覇権をめぐって衝突することになる。これにグエルフィ(教皇党)とギッベリーニ(皇帝党)という政治的思惑もからみ、13世紀になると、熾烈な武力衝突を繰り返した。1260年のモンタペルティの戦いでシエーナはフィレンツェを破り、トスカーナの覇権を握ったが、わずか5年の後、ローマ教皇の誘いに応じて南下したフランス王国がグエルフィ同盟を結成、ギッベリーニ(皇帝派)を標榜するシエーナは孤立した。1269年、シエーナはフィレンツェとフランスの連合軍に決定的敗北を喫し、次第にシエーナの経済活動はフィレンツェに遅れをとりはじめた。
ワンド エリア ショール 二十世紀 スタス テーブ アニマロジ マクロレ オイスタ ライスワン キック フィー カウツギ バンダナ ディージ オクラ テランセラ タヒボ リーフ 夜汽車 カウチ ふたり星 ユリ最適 時空ド ミリタリー サギソウ トライプ ドーベ メリル プレタク チューブ カムカエ ラッター ソーサー ラクト バック 朝日が昇る ジプサム フェロモア ション デュアル ウォマ フラッシュ ルコア サイホン シンク タイガ デキャンタ ディスコン テーピング

フィレンツェに覇権を奪われたとは言え、ノーヴェ体制を有するシエーナの経済活動はなお盛んであった。シエーナの芸術活動が最も盛んになるのは、この13世紀末から14世紀中期までの時期である。しかし、1350年頃からはじまり、一説では人口の半分が犠牲になったとされる黒死病の流行により、シエーナの全ての活動は停止する。以後、芸術活動は続けられるものの、そのきらめきを取り戻すことはなかった。

主な建築物
シエナ大聖堂
パラッツォ・プッブリコ
カンポ広場

2009年02月23日

レアメタル(希少金属)

レアメタル(希少金属)は非鉄金属のうち、様々な理由から産業界での流通量・使用量が少なく希少な金属のこと。

レアメタルは非鉄金属全体を呼ぶ場合もあるが、狭義では、鉄、銅、亜鉛、アルミニウム等のベースメタル(コモンメタルやメジャーメタルとも呼ばれる)や金、銀等の貴金属以外で、産業に利用されている非鉄金属を指す。
マッチョ シスター シャンソン ミズバシ ストック オタワ ビピンセット モカシ クアヘン ランプ ジョー たけのこ ハットピン スコー どひ ノーサンキュ ケース ブイカッタ バウハ テイクオフ ジェム デグレー バラモン ライト コモデ ダイナモ いえごん ミドル 陣の風 タブロイド キシレン オー ラテン レディ ムートン クオンツ パペット ユーレカ ホーム ターフビ ジュゴン オフショ パリジャ オフラ ブランド 学園祭 プロッター チャマ ハンドマッ バール

リチウム ベリリウム ホウ素 (希土類) チタン
バナジウム クロム マンガン コバルト ニッケル
ガリウム ゲルマニウム セレン ルビジウム ストロンチウム
ジルコニウム ニオブ モリブデン パラジウム インジウム
アンチモン テルル セシウム バリウム ハフニウム
タンタル タングステン レニウム 白金 タリウム
ビスマス

希土類元素(レアアース)17種類

スカンジウム イットリウム ランタン セリウム プラセオジム
ネオジム プロメチウム サマリウム ユーロピウム ガドリニウム
テルビウム ジスプロシウム ホルミウム エルビウム ツリウム
イッテルビウム ルテチウム

用途
レアメタルの用途は大きく分けて3つある。

構造材への添加
電子材料・磁性材料
機能性材料

構造材
構造材に使われるレアメタルは、鉄や銅、アルミニウムなどのベースメタルに添加して合金を作ることに使われ、強度を増したり、錆びにくくしたりする。ステンレス鋼、耐熱材、マイクロアロイ鋼、特殊鋼(工具、耐磨耗)、Ni合金材、Cu合金材、Ti合金材、Al合金材などに利用される。

電子材料・磁性材料
半導体レーザー、発光ダイオード、一次電池、二次電池(ニッケル-水素電池)、燃料電池、永久磁石(希土類磁石)、磁気記録素子、磁歪材料、磁気冷凍、超伝導材料などに利用される。

機能性材料
光触媒、磁気光学媒体、EDレンズ等の光学ガラス、ニューガラスと呼ばれる透明電極(ITO)や光通信用のフッ化ガラス、ニューセラミックスと呼ばれるガスセンサーや切削工具の刃先、磁気ヘッド、形状記憶合金、水素吸蔵合金などに利用される[2]。 他にCRTやプラズマディスプレイ、蛍光灯等の蛍光体にも使用される。

価格と需給バランス
多くのベースメタルや貴金属は、世界の主要な商品取引所、たとえばロンドン金属取引所(LME)やシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)、ニューヨーク商品取引所(COMEX)などで日々売買され市場価格の透明性が確保されている。一方、ほとんどのレアメタルは実需流通規模が小さく公正な市場価格の形成維持が困難なため、商品取引所に上場していない。代わりに、経済紙や金属専門雑誌、Webニュースでの流通価格情報が取引の指標として用いられており、取引の透明性や即時性、流動性に乏しい。

一般にレアメタルが希少な理由は、

地殻中の存在量が比較的少なく、採掘と精錬のコストが高い
単体として取り出すことが技術的に困難
金属の特性から製錬のコストが高い
といった点があげられている。

この他の理由として、過去の長期に亘って金属の取引価格が低く抑制されてきたことが挙げられる。仮にレアメタルが金やプラチナ並みに高騰を続けた場合、様々な鉱石に僅かに含まれるレアメタルを抽出、製錬することで採算が取れるため採掘量は拡大していたと思われる。また、製錬の技術開発に多額の投資がなされていれば、より多くの量が抽出できている可能性がある。

実はレアメタルは、レア・アースを除けば地殻中の存在量は、鉄や銅の例外を除くベースメタル(コモンメタル)の存在量よりむしろ多い。レアアースが希少であるのは、採鉱される鉱石に含まれる割合が非常に少ないために、精錬による濃縮に大きな手間がかかるためである。金、銀、鉛、錫のようなベースメタル(コモンメタル)では特定の鉱石中に高い割合で目的の金属元素が含まれているので、昔から簡単な精錬方法で利用されてきたが、レアメタルはクロム、マンガン、ニッケルのように鉱石として採掘されるものは少数派で、ほとんどが他の金属鉱石中に微量が構成金属を置換して存在している。

レアメタルは1?3の理由のほか、用途が限られているため特定の産業でしか用いられなかったり、他の金属に代替できたり、価格高騰時には国家レベルで抑制策が打たれたり、などといった様々な制約から価格の高騰が抑制され、取引量が拡大しない点で希少性を保ってきた。

こうした状況の中で、レアメタルと呼ばれる各種元素で絶対的な枯渇が起きるという情報は無いがBRICsの経済発展と特殊な電子機器の部品開発に伴う急激な需要の増加に対して供給量が少ないために急激な価格の高騰が起こっており、2002年から2007年の5年間でニッケルの価格が8倍になった他、モリブデンやレアアースなど多くの物質で価格が数倍に上がっている。

一方でレアメタルは用途が狭いために、代替技術が開発されると需要が急減するため市場価格が不安定である特性を持つことが、こういった特殊な地下資源産業への投資行動を躊躇させている。1979年の「ミネラル・ショック」時には、日本でもコバルトやモリブデンを触媒として消費していたメーカーは直ちにリサイクル技術を確立することで消費量を削減した[1]。

レアメタルはほとんどの製造業で不可欠な素材である。半導体産業ではタングステンやモリブデン、ニッケル等が必須の素材であるし、自動車産業では白金やパラジウム等がなければ排ガス規制をクリアできる自動車を製造できないと言われている。ただし白金を使用しない燃料電池が開発されたことから、今後白金の需要は減退するという見方もある。捨てられた携帯電話や家電製品など廃棄物からの抽出によるリサイクルも行われており、新たな資源供給源として「都市鉱山」と呼ばれている[2]。

産地の偏在性
レアメタルの産出地は、中華人民共和国・アフリカ諸国・ロシア・南北アメリカ諸国に偏在している。

レアメタルの産地に関する特徴として、ほとんどのレアメタルが産出量上位3カ国で50%?90%の埋蔵量を占めている。例えば希土類元素(レア・アース)やタングステンは中国だけで90%以上の埋蔵量があり、バナジウムは南アフリカ、中国、ロシアの三カ国で98%を占める。これらの国の政策、経済情勢、政情不安などによって、将来さらに入手が困難になることが予想されており、安定供給やリサイクル技術の確保が求められている。

国家備蓄
アメリカ合衆国やスイスでは、第二次世界大戦直前より国家の非常事態に備えてレアメタルの国家備蓄を行ってきた。戦後になると、アフリカのレアメタル産出国の政情安定に対応するため、経済安全保障の立場から備蓄を進める国が増えた。
日本では、1983年改正の「金属鉱業事業団法」によって経済安全保障の理由から供給停止等の障害に備えて平常時の消費量を基準にして、国家備蓄の42日分と民間備蓄の18日分の合計60日分の国内備蓄が石油天然ガス・金属鉱物資源機構によって行われている。品目対象はニッケル、クロム、タングステン、モリブデン、コバルト、マンガン、バナジウムの7元素。供給の障害が生じた場合は緊急放出を行い、市場価格が高騰した場合も国家備蓄分を売却することで価格の安定化を図るとしている。バナジウムについては実際に、1998年の市場価格高騰時に国内市場への放出が行われた。現在の7種に加えて、インジウム、リチウム、多種のレア・アースを新たに追加するか検討されている[2]。

副産物レアメタル
レアメタルは主産物としてのベースメタル鉱石中に副産物として得られるものが多く、以下に主要な主産物と副産物の関係を示す。

レアメタルの主要な主産物と副産物 主産物 レアメタル
銅 コバルト Co
鉛 アンチモン Sb
アルミニウム ガリウム Ga
亜鉛 ゲルマニウム Ge
亜鉛 インジウム In
亜鉛、銅 タリウム Tl
鉛 ビスマス Bi
銅 セレン Se、テルル Te
リチウム ルビジウム Rb
モリブデン レニウム Re

主産物である鉱石の採掘を停止すると副産物の産生も行なわれなくなる。日本のケースでは、2006年2月に豊羽鉱山の採掘・操業が停止されたため、世界第1位の産出量であったインジウムの供給源を突然失った。

日本におけるレアメタルの状況

日本での地下資源
日本でも黒鉱ベルト(グリーン・タフ)と呼ばれる、鉛、亜鉛、バリウム、アンチモン、ビスマスを豊富に含む鉱床が存在するが、硫化鉱と諸金属からの分離に手間がかかるために、従来はコスト的に引き合わなかったため採掘は行なわれていなかった。これも、21世紀から始まったレアメタルの価格高騰が続けば、今後の開発も現実味を帯びてくる[2]。

海洋資源の開発
日本の排他的経済水域内にはレアメタルの含有量の高いマンガンノジュールやコバルトクラストや熱水鉱床があり、開発が期待される。

日本不在の非鉄金属業界
世界の非鉄メジャーと呼ばれる企業群の中に日本企業の名前はなく(下の非鉄メジャー一覧を参照)、鉄鋼業界における日本の重要性とは全く異なる状況にある。日本の商社は日本企業向けのレアメタルの輸入を行なっているが、鉱山開発から精製、販売までの非鉄金属業界の中で自ら進んで戦略的に動く意思と能力は持っていない。

こういった中で、中国やロシアが「資源ナショナリズム」と呼ばれる自国資源の囲い込みを始めているため、日本の国内産業に不足するレアメタルを輸入するには資源国の示す価格条件を受け入れるしか選択肢がない状況である[1]。

代替品開発
日本の経済産業省では、2007年より「希少金属代替材料開発プロジェクト」を発足させた。インジウム、ジスプロシウム、タングステンの3つのレアメタルの代替材料を産官共同で開発する計画である。文部科学省も同じく2007年より「元素戦略プロジェクト」を行なっている。代替品開発と希少金属元素の効率的な使用方法開発を目指している[2]。

非鉄メジャーの一覧
企業名 国 種類 売上高
(2006年,百万ドル)
アングロ・アメリカン社
(Anglo American PLC) 英、南ア 総合資源 18,825
リオチント
(Rio Tinto) 英、オーストラリア 総合資源 12,111
BHPビリトン
(BHP Billiton) 英、オーストラリア 総合資源 20,927
エクストラータ
(XSTRATA plc.)(グレンコア) スイス 多種金属 5,178
CVRD
(Companhia Vale do Rio Doce) ブラジル 多種金属 7,803
WMC
(WMC Resources Ltd) オーストラリア 多種金属 不明
コデルコ
(CODELCO, Corporacion Nacional del Cobre de Chile) チリ 銅専門 8,021
フェリプス・ドッジ
(Phelps Dodge Corp.) 米 銅専門 5,217
ファルコンブリッジ
(Falconbridge Inc.) カナダ 亜鉛専門 6,806
ノリリスク
(Norilsk) ロシア ニッケル 不明
インコ
(Inco Ltd.) カナダ ニッケル 3,025

出典:JOGMEC, K.SAWADA

2009年02月07日

山名時氏・山名氏清・山名師義・山名宗全

山名 時氏(やまな ときうじ、嘉元元年(1303年) - 建徳2年/応安4年3月28日(1371年4月14日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など。
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伝記
上野国の新田氏の一族である御家人の家に生まれた。今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされるが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられる。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となる。

1350年、足利家において将軍尊氏の弟の足利直義と、足利家執事の高師直の対立が発展して観応の擾乱が起こると、時氏は初め師直を推して直義排斥のクーデターにも参加するが、12月に京都を脱出して南朝に属し、師直を滅ぼした直義に従う。51年に直義が死去すると、一時は将軍派に転身するが、出雲の守護職を巡る佐々木道誉との対立もあり、53年には幕府に対して挙兵して出雲へ進攻、6月には南朝の楠木正儀らとともに足利義詮を追い京都を占領するが、7月には奪還される。時氏は領国に撤退した後、将軍尊氏の庶子で一時は九州で影響力を持っていた足利直冬を奉じ、翌54年12月には、斯波高経や桃井直常らと再び京を占領するが、撤退。

その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦う。幕府では67年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順する。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将であった。73歳で死去。

山名 氏清
山名 氏清(やまな うじきよ、興国5年/康永3年(1344年)- 元中8年/明徳2年12月30日(1392年1月24日))は南北朝時代の守護大名である。山名時氏の子。

山名氏は父の時氏が2代将軍足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。1371年(応永4/建徳2)に時氏が没すると氏清の弟・山名時義が後を継いで山名氏の総領となり、氏清は丹波、和泉を領する守護に命じられた。しかし総領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたという。

1389(康応1)に時義が死去し、その後を時義の子・山名時煕が継いだ。康暦の政変で管領の細川頼之が失脚し、山名氏の強大化を懸念していたと考えられる3代将軍足利義満は、時義死後の家中分裂に伴い、将軍令として氏清とその甥にあたる山名満幸に対して時煕、山名氏幸の討伐令を下し、氏清はこれに応じて時煕を攻めて追放した。ところがその後、義満は時煕・氏幸を赦免し、さらに時煕を攻めた責任を山名満幸に問うとまで言い出したのである。氏清は満幸に反乱へ誘われ、積極的でなかったとされるが一族の山名義理、山名氏家らとともに1391年(明徳2)に挙兵して、同年12月には京都に攻め入る。合戦は京都内野で行われ、大内義弘や赤松義則、京極高詮などの有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。

山名師義
山名師義(やまな もろよし、嘉暦3年(1328年) - 天授2/永和2年(1376年))は、南北朝時代から室町時代の武将。父は山名時氏。兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。子に義幸、氏之、義煕、満幸ほか。娘は甥にあたる時義の子時煕の室。左馬権頭。

観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務める。貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国・伯耆国の守護職を引き継ぐ。幕政においては管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げた。1371年に時氏が死去すると惣領となるが、まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となる。

また、伯耆国に打吹山城を築き、時氏統治時代の居城田内城から移転している。 

山名宗全
山名 宗全/山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ、応永11年5月29日(1404年7月6日) - 文明5年3月18日(1473年4月15日))は、室町時代の守護大名。室町幕府の四職のひとつ山名家の出身。山名家は清和源氏新田氏族。山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。

経歴
1432年に家督を相続。1435年には父の時熙が死去し、1437年には兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち備後で挙兵し、これを鎮圧する。1440年には侍所頭人となる。1441年(嘉吉元年)に赤松満祐らが6代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨国で挙兵した嘉吉の乱では義教と同席していたが抵抗せずに脱出し、討伐軍の主力を率いて戦い鎮圧に貢献し、赤松氏の領国を加えて播磨国など8ヶ国の守護職を回復して再び権勢を得た。1443年には山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ、1447年には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結ぶ。
1450年(宝徳2年)に出家し、家督を子の教豊に譲る。1454年には赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立し、政務を引退して但馬へ下国。赤松則尚が播磨で宗全の孫に当たる山名政豊を攻めると、但馬から出兵してこれを駆逐する。1458年には赦免されて再び上洛。幕政を巡り、娘婿である勝元と対立するようになる。三管領の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持した。

南禅寺1465年に男子を出産した足利義政正室の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する。1466年には勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。同年12月には畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる。1467年には畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる。さらに上御霊社の戦いでは義就を加勢し、政長を駆逐させる。5月には宗全と対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ、双方で散発的な衝突が起こる。

宗全は出石・此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する(応仁の乱)。当初室町亭の将軍らを確保した勝元率いる東軍に対して劣勢であったが、8月には周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。1472年には和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている。1473年(文明5年)に病死、享年69。法名:達碧院殿最高宗峰大居士。

墓所は京都市左京区の南禅寺(京都五山)塔頭の真乗院。(〒606?8435 福地町86?11)

官職位階履歴
※月日=旧暦

1413年(応永20年)、元服し、将軍足利義持の名を一字賜り、持豊を名乗る。
1439年(永享11年)1月、正四位下左衛門佐に叙任。
1440年(永享12年)6月13日、幕府の侍所所司に就任。
1441年(嘉吉元年)7月12日、幕府の侍所所司を辞任。
1442年(嘉吉2年)1月、従三位右衛門佐に昇叙遷任。
1444年(文安元年)以降、右衛門督に転任。
1450年(宝徳2年)、出家し、宗峰と号する。後に宗全と改める。
1454年(享徳3年)11月、隠居し、家督を教豊に譲る。

2009年01月22日

シルクロードの起点と終点

シルクロードを中国とローマとの間の主要貿易路とするならば、その中国側起点は洛陽(河南省洛陽市)。長安(陝西省西安市)という説も有力ではあったが、2007年4月に中国政府は洛陽であると認定)であり、その欧州側起点はシリアのアンティオキアと定義できる。この名称をリヒトホーフェンとヘディンが使用した意味で理解すれば、この隊商路の主要な路線は次の3本になる。

敦煌(とんこう)からアルトゥン山脈に沿い、ホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南辺のオアシスを通過してパミール高原に達する南方の交通路 (西域南道)。これが最も古い。砂漠の南を通ることから漠南路とも呼び習わす。
敦煌からトゥルファンを経てウルムチに達し、イリ川流域にいたるもの。この北方のシルクロードはおそらく紀元後数年に開かれた。天山山脈の北麓を進むことから天山北路とも呼び習わす。
敦煌から楼蘭(ろうらん)を経てコルラに達する中央路は北方路よりも古く、南方路と同じ頃の紀元前2世紀にさかのぼり、最も重要な隊商路として4世紀前半まで使用されていた。天山南路あるいは漠北路ともいう。
広義のシルクロード、すなわち西トルキスタン(旧・ソ連領中央アジアの一地域)以西の東西隊商路は多数の路線に分岐していた。

海のシルクロード
シルクロードという語は中国と関わる貿易路の代名詞のようにもなっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジア、インド洋を経てインド、アラビア半島に至る海路のことを「海のシルクロード」と呼ぶこともある。

すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマはこの貿易路も継承して、南インドにアメリカドゥなどいくつかの商業拠点を築き、絹を求めて中国にまで達したことは中国史書にも記載されている。古代にはマラッカ海峡はあまり使われず、マレー半島のクラ地峡を横断するルートが多かった。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。陸のシルクロードは諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのに対し、海のシルクロードを遮るものはなかった。

7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退したが、宋代になると再び中国各地に進出し、元代まで続いた。明は海禁政策を取り、朝貢貿易しか認めず、16世紀には喜望峰経由でポルトガルが進出したため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。

シルクロードと日本
日本では、奈良の正倉院に残る数多くの中国製やペルシア製の宝物、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人が日本に来朝したことに関する記録などがある。当時の日本は唐代の東西交通路に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。

日本では学校教育でシルクロードを取り上げてはいたが、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが1980年に放映した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって一躍シルクロードの名は有名になった。日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言っていいほど「シルクロード」という言葉が記されている。特に中央アジア(敦煌〜サマルカンド)といえばシルクロード、という連想は非常に強い。
キーワ マラガ エンドロ せきがく ゆずりは シリアス パンパ ミント 春紫苑 ヒッピ マスタ ビューロ シーア ネーム たこあし スミス ビリティ ニッパー パンチ メチエ マフラー ガビアル きがん デュープ ナップ キーポイ うぐい ラティーノ テキスト キミと僕 サイトリー バーミュ マティ たいこう トトス フォーク ジンキケロ バランス フラッペ ルネサ シンシティ メリット トーン ファントム ジャングル エレジー タンク タール 光夜宴 プルーフ

なお、日本国内においても、幕末から明治にかけて、日本の主要な輸出品であった絹を横浜港に運ぶ交易路が存在し、その集積地があった八王子から横浜にかけての道が「絹の道」や「シルクロード」と呼ばれることもある。

テレビ番組
NHK特集 シルクロード(NHK)
新・シルクロード(同上)
アニメ番組
マルコ・ポーロの冒険(NHK)
シルクロード少年 ユート(同上)
音楽
NHK特集 シルクロードオリジナルサウンドトラック(喜多郎)
絹の道(川井聖子)
異邦人(久保田早紀)
写真集
シルクロード(並河萬里)
漫画
シルクロード・シリーズ(神坂智子)
乙嫁語り(森薫)
オンラインゲーム
ファンタジーオデッセイ・シルクロードオンライン

2009年01月15日

天女(てんにょ)

バース むぐら ティラミス スカーレット テキーラ 吉日 メルルー ももいし 高潔 サーチ花粋 オーラップ フロア ブイヤ マデイラ シュロ コムタン 滝の白糸 西村 ネガ トール いこて ツリフネソ ミドル マインド ビッグ ラット レックス 夾竹桃 キエフ ラクーン ブルガリ チョッパー メンデル バリウ モルガ ピュアコ バグダッド ひおき マイナ トウガラシ なんぽろ ライフボート ルミッ リアダ ステロール ジャスミン 水玉シャツ ジャンボ シプル パスボール

天女は、天部に住むとされる女性のことで、天帝などに仕えているとされる女官の総称である。人間界においては容姿端麗であることを除けば人と大きく変わるところはなく、羽衣と呼ばれる衣服で空を飛ぶとされるが、この羽衣を奪われたばかりに空に帰れなくなり、地上の男性と婚姻する話(羽衣伝説)などが伝えられている。

羽衣伝説は日本(北海道から沖縄まで)や朝鮮半島などの各地に伝説が伝わっており、民俗学の上では渡来人説から異類婚姻譚の一つである白鳥処女説話の一種とする説がある一方で、果てはオーパーツ / オーバーテクノロジー信奉者らによる宇宙人と見なす説までみられる。

仙女(仙人の女性)との相関性も伝承中には見出せるが、両者の差異は曖昧である。

民間信仰における女性の神格性(女神)とは些か趣を異としており、天女自身が超常の力を持つという描写は少なく、地上へは専ら何らかの連絡か個人的な用事(水浴びなど)のために訪れるというだけで、その存在自体は比較的俗である。

西洋における伝承中では、自然霊的な精霊ないし妖精(フェアリー)のうち女性の姿をとるものがこのイメージに近しいため、しばしば同一視される。

関連する存在
飛天は仏教美術にしばしば登場する「空を飛ぶ人物」で、特に女性形の者は天女と同一視される。インド方面を起源とする説と、オリエント・ペルシャに起源を求める説があるが、後者のほうは元々、有翼人種(亜人ないし精霊の一種)として描かれていたと推測されている。これが西洋方面に伝播する過程で天使に、東洋方面に伝播する過程で飛天から天女へと変化していったと目されている。

インドの精霊キンナラは男性形が馬頭人身の姿をしているが、女性形のキンナリーは天女としてのイメージを持つ。またインド神話では天女は神格を持つ存在の一種であり、アプサラスなども天女の一種に分類される。ただアプサラスはニュンペー(ニンフ:水の精霊)とも同一視される。

イスラム教ではフーリーが天女と同一視される。フーリーは永遠の処女であり、敬虔なイスラム教徒は死後にイスラムに於ける天国世界で彼女らの歓待を受けるとされている。

余禄とはなるが、北欧神話におけるワルキューレも、主神オーディンの命を受け、戦って死んだ勇者を天界(ヴァルハラ)に導く存在であり、ある意味では他の文化圏における天女に近しいイメージがあるが、北欧神話の観点ではあまり関連付けては扱われない。

比喩表現として
美しい女性を天女と例えることもある。ただこれは女神などと形容する場合と同様に、崇拝に値するという意味であり、それ自体は美貌を唯一基準とする個人崇拝の一種である。